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トモミのひとりごと

アメリカロサンゼルスから日常のことや育児のことなどいろいろ

14年目

阪神・淡路大震災があってから今日で14年目 というニュースを目にして、「もうそんなに経ったんだぁ」と思いました。

ご存知の通りトモミは神戸出身。
大震災のニュースでよく取り上げられていた阪神高速の倒壊部分から自宅までは徒歩で行けます。

当時大学4回生だった私。
私が通っていた大学は3学期制だったのですが、地震当日はその第三学期目が始まる始業式の日でした。

朝方、ゴオーッというものすごい地鳴りの音で目が覚め、同様に目が覚めた母と顔を見合わせました。
「何の音?」・・・。

その瞬間クラクラ・・・と家が揺れ、
「なに?地震???」
と思った瞬間、地面からドンッと突き上げられ、(感覚的には天井が降ってきたような感じ)、気がついたら布団を挟んで母がタンスの下敷きになっていました。

私はタンスの端を持ち上げ母を出し、母と二人で隣の部屋で寝ている妹二人の無事を確認して、

「地震がきたら押し入れ」


という、なんともお粗末な知識に頼って押入れに入りました。

あ、ちなみにその日、父は岡山の実家に帰省していて留守でした。

押入れの中でも1度怖いと思うくらいの揺れがあり、ベランダの方に目をやると電線がスパークしている火花が見えました。
それが電線だということは後で知ったわけで、その時それを見たときは
「戦争?」
と思ったくらい。

間もなくして同じマンションに住む人が
「大丈夫かー」
と声を掛けてくれ、近くの小学校の避難をするけど、ガラスがたくさん割れているのでとりあえず靴を履くようにいわれ、物々しい雰囲気にミスマッチだと思われた昨晩から巻いていたカーラーを外し、クルンクルンの林家ペーみたいな頭で外に出ました。

マンションを出て右手は壊れた一軒家が道をふさいでいたので左側から小学校へ向いました。
そしてその時初めて

「これは地震だったんだ」

ということが分かりました。

小学校のグランドで同じマンションの住人達と肩を寄せ合いながら時折来る余震におびえていました。
開店前の準備に追われていた近所のパン屋さんがみんなにパンを配っていたそうでそれをもらった誰かが誰かにおすそ分けし、うちまで回ってきました。

その後校舎に入れることになったけど、机とイスが邪魔なので全員でバケツリレーのごとく外に運び出した。
男性も女性も子供も関係ない。できる人が人の間に入りリレーを手伝った。
そして被災者は校舎の中へ。

だけどいろんな物が足りない。
教室の床に敷くマットみたいな物があれば・・「コタツ敷きがいいかも」
夜になるともっと冷えるぞ・・・「毛布はいくらでもあったほうが良い」

貴重品の行方も気になったので母と一緒に自宅に戻りました。
食器棚が倒れ、いろんな物が割れた上にいろんな物が割れていてもうぐちゃぐちゃの中、電話のベルが鳴ったけど電話が見つけ出せない。
おそらく父からだということは分かっていたけど、結局探せないままで・・・

町の公衆電話は長蛇の列。
お互いの無事を確認したり伝えたりする為にみんな並んでいるのだけど、電気が通ってないのでカード式公衆電話は使えない。
10円か100円を入れる旧式の電話機に人が集中するのだけど、コインがいっぱい溜まると誰かが空にするまで使えない。なのでまた違う電話を探す。

私は列に並び、父のいる岡山にかけた。
伯父が出て、無事でいることを伝え、伯父は伯父でたった今父がそちらに向って出発したと話す。

その後にもう一度電話をしたのか、歩いていったのかは不明なのだが、近所の母方の伯母の無事を確認した。
彼女は揺れの後も家の中でせっせと片付けを行い、私たち家族4人くらいなら引き取れるから小学校を出てくるようにと言ってくれ、日が暗くなる前に伯母の家に行った。

水も電気ももちろんガスもない状態で3日ほどおばの家で過ごした。
そして3日後、玄関口で父の声が聞こえた。

隣県の岡山とはいえ、車で2時間もあれば十分着く距離を父は3日かかってやっと神戸まで帰ってきた。
トランクには岡山の親戚が詰めてくれたたくさんの支援物資。

父の話では車は鎖のようにつながり、その横を民族大移動のごとく歩く人々、トイレにもろくろく行けず、たまたま居合わせた人から頂いた半分のメロンパンでしのぎながら運転しつづけたらしい。

父が戻ったので、私たちは自宅に戻り、家の中を片付け、何とか生活ができるようにした。
確か電気が1週間、水が1ヶ月、ガスは3ヶ月使用できなかったけど、自衛隊が設営したオフロを頂いたりもした。一人持ち時間5分の中で着替えも全部済ませなければいけないという、ありえない状態だったけど、入った後はとても気持ちが良かったのを覚えている。

幸い大阪から最寄の駅までは電車が開通してたので、被害の少ない地域の銭湯に行ったり、食材を調達したりもした。

調理は卓上ガスコンロをフル活用。
これは当時、我が家にはなかった代物だが大阪の友達が必要だろうと持ってきてくれた。
支援物資も炊き出しもたくさんあったので、贅沢にも食べることにはあまり不自由しなかった。

郵便が再開したのは10日くらいしてからだったかなあ?
当時応募していた米系航空会社の書類選考通過の書類がやってきたのに、
なんと面設日は地震があった17日。
泣く泣くあきらめたっけなあ。

ま、この話には続きがあって、その後もう一度そこの会社から面接のお呼びがかかり、ご縁があってか採用通知を頂き私のスッチー時代がはじまるわけですが。


ざっと記憶を頼りに書いてみましたが、幸いにも近い人を失わずにすんだ私は、毎年この日が来ても思い出すことといえばこの程度なのですが、そうでない人は本当にたくさんいるのだと、追悼行事を見るたびに思います。

地震は本当に怖い。
建物が上から降ってくるかもしれないし、火事になるかもしれない、車の中にいて思わぬところへ放り出されることもあるかもしれない。
予測できないことがたくさん起こるのが地震。

日本は地震大国、ここカリフォルニアも地震が多いところ。
自分が今からできること、やっておかないといけません。



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